1ヵ月前じいちゃんが死んだ。
じいちゃんは肺炎を患っていた。
こんな事態なので特にコロナに感染しないよう細心注意して、自宅で療養していた。
看護はばあちゃんにしてもらっていた。
時々様子を見に行くと、ご飯を食べさせたり、身体を拭いてあげたり、本を読んであげたりばあちゃんは休みなく動いていた。
いつもぴったりそばについて、献身的にじいちゃんのお世話をしていた。
「疲れたでしょ、休んでいいよ」と僕が言っても、「大丈夫よ」と明るく笑っていた。
夜中にじいちゃんの容態が悪くなってしまい病院に運びこまれたが、回復することはなく昏睡状態のまま2日経って息が途絶えてしまった。
今日はじいちゃんの思い出を書いてみようと思う。
じいちゃんは、カッコよかった
背が高く、脚が長く、ガッシリした体型で、日焼けした肌はぴかぴか光っていた。
夏は白いTシャツにジーンズ。
冬場はライダージャケットと革パンなどもよく履いていて、レイバンのサングラスがとても似合っていた。
亡くなる少し前まで、バイクに乗り1人でツーリングに出かけるアグレッシブなじいちゃん。
こころに余裕のある自由人のような趣きと、ミステリアスな雰囲気は、男も惚れるようなカッコよさがあった。
若いころは親友とつるんで中学生のころからジャズバーに出入りしてお酒も飲んでいたという。
いろいろな悪さをしたり、何人もの女性と付き合っていたりと、やんちゃでモテモテのいわゆる遊び人だったみたいだ。
じいちゃんの伝説
結婚して、母が生まれてからも、遊ぶことを辞められず度々浮気もしていたそうだ。
あるときそれがバレて、ばあちゃんと相当やり合った。
そんなじいちゃんのことが母は大嫌いだったと言っていた。
しかし、じいちゃんは、ばあちゃんのことが大好きで、大好きでしかたなかったという。
「別れましょう」と切り出されたときじいちゃんは、家の屋根に上り、周り近所に聞こえるくらいの大声で、ばあちゃんに向けて愛の告白をした。
そのあと、屋根から飛び降りて、足の骨を折りながら謝りつづけ、出ていくばあちゃんを思い留めさせたという伝説的なエピソードがある。
そんな、破天荒なじいちゃんだったが、僕が思い出すことができる記憶では、いつもニコニコして穏やかだ。そしてバイクをこよなく愛するじいちゃんだった。
じいちゃんのバイク
僕も何度かじいちゃんの運転するバイクの後ろに乗せてもらったことがある。
1番最初は小学校2年生の時だった。
スピードをぐんぐんと上げ、風を切る力強いタンデムだった。
大きな背中にしがみついたときの熱く、頼もしいあのぬくもりは今も忘れていない。
じいちゃんが乗り継いできたバイクのラインナップはこんなところ。
- ハーレーXL883N
- GSX1100S
- Kawasakiゼファー400
- pcx
僕がバイク好きなのもそんなじいちゃんの影響が大きい。
じいちゃんのヒミツ
じいちゃんはバイクに乗り、週末になると決まって1人でツーリングに出かけた。
雨の日も、風が強い日も関係なく房総半島に出かけた。
1日泊まって次の日に戻ってきた。
お通夜、告別式、葬儀が終わって数日後、じいちゃんのガレージ小屋を片づけていると、道具の置かれた棚の脇の方に、まだ新品同様のヘルメットが置いてあった。
SHOEIのZ-7イエローの目立つやつだ。
これを付けてまた1人でツーリングに行こうとしていたのだろうか……。
ふと見ると、そのヘルメットの下にノートがあった。
パラパラとめくると、それは1人ツーリングをした時のじいちゃんの日記のようだった。
その中に、度々目に入るある女性の名前が気になり読んでみると、なんと、じいちゃんは房総半島ではなく、横浜の女性の部屋に行っていることが記されていた。
体調が悪くなる前まで、その女性のところに毎週通い逢瀬を重ねていたのだ。
さらによく読んでいくと「愛奈のときは―」などと書いてあるので、特定の女性1人ではなく複数人と関係を持っている。
しかもこの「愛奈」っていかにも若そうな名前ではないですか!
僕は、ばあちゃんには絶対見せてはいけないやつだと、とっさに察知し、ヘルメットに隠してその日記を家にもって帰った。
母に見せると「もー、がっかりしたー」と呆れていた。
そしてこの日記は燃やそうということになった。
ヘルメットも僕に被って欲しくないというので、ヘルメット買取のお店で売った。
間もなくして、お店から4万円を振り込んだという連絡があった。
僕は看護をしていたばあちゃんの笑顔を思い浮かべ、なんだか胸が苦しくなった。
母と相談し、その売ったお金を足しにして、ばあちゃんと母と僕とで南房総半島のINFINITO HOTEL & SPA 南紀白浜に行く約束をした。
そこで、じいちゃんの思い出を3人で話そうと思う。
とても複雑だけど。